由来と歴史
河本家が赤崎に移住するようになったのは、尼子氏の重臣であった河本弥兵衛隆任が、 月山城の落城の際に落ち延びてきてからで、元亀2年(1571)の頃である。その遠祖は佐々木高綱とも伝えられている。なお、『雲陽軍実記』の著者の河本隆政は、隆任と縁戚関係にあった。
その後、松江城主の堀尾家の3代忠晴が死去した際(1633年)、嗣子がなかったために絶家となったが、 初代吉晴の孫の菊姫が大庄屋を勤めていた河本家3代目の長兵衛と夫婦となった。 そして2人の男の子を得たので長男の長兵衛に堀尾姓を名乗らせ、次男の甚右衛門に河本家を継がせた。

- これより先、元和3年(1617年)に江戸の名僧霊厳上人が赤崎村に巡錫して来た時、 2代目長兵衛(助次郎)は上人に寺を建立することを請願し、専称寺を建てた。
- 明暦3年(1657年)に江戸で大火事が起こった際、鳥取藩の藩邸が焼けてしまったため、藩では堀尾長兵衛に材木の調達を命じた。 長兵衛は和泉国堺から大型の船を購入してその任に当たったが、甚右衛門も兄の長兵衛の仕事を手伝った。 この時に港が大幅に改修され、「菊港」と呼ばれるようになり、今もその名で呼ばれている。
- 河本家が赤崎村から今の篦津に移住したのは5代目の弥三右衛門の時で、寛文年間(1670年頃)のことである。 以来、大庄屋などの公儀を勤め、田畑を開き、豪農としての地歩を築いて来た。この間、代々大庄屋を勤めている。
- 幕末になって海岸警備が厳重となり、赤崎にも砲台が備えられると、その取締役を命じられた12代目の伝九郎は 自ら砲術の習得に努めるとともに、尊皇運動にも力を注いだ。 鳥取藩主の池田慶徳は地方巡視の際に河本家に立ち寄って休息している。
住宅の特色
河本家住宅は、昭和53年度の屋根葺替え際に、 棟札の調査で享受5年(1688年)の建築と分かった。 当時の当主は5代目の弥三右衛門で、篦津に移ってきてから約20年後のことである。
現在は変形6間取りとなっているが、もとは広間型5間取りであったと思われる。 屋根は茅葺きで箱棟が乗っており、小屋組みは合掌作りである。 また、炊事場の篭の上を壁土で覆った煙返しは、防火施設として珍しいものである。
昭和49年鳥取県有形保護文化財、平成10年鳥取県建物百選、平成22年国指定重要文化財の指定を受けた。
国指定重要文化財の指定物件と概要
指定物件
・主屋 1棟
・離れ 1棟
・味噌蔵及び米蔵 1棟
・新蔵 1棟
・土蔵 1棟
・附(つけたり)
・門及び納屋、米蔵、大工小屋 各1棟
・家相図 1枚
・宅地、畑及び池沼 6,325.47㎡
※ 附(つけたり)とは、年代、状態などからそれだけでは指定にあたらない場合でも、指定文化財と一体であることによって、価値が生じるものを附けたりとして指定されます。
概 要
・河本家住宅は、日本海沿岸の旧伯耆往来沿いに位置する。
・当家は、昭和53年の主屋の屋根葺き替えが行われた際に棟札がみつかり、貞享5年(1688年)に五代目の弥三右衛門(やさえもん)が建てたもので、建築年代の明らかな民家としては山陰地方で最古に属し、大変貴重なものである。
・主屋の周囲には江戸後期に建てられた蔵などの付属建物が建ち並び、豪農の屋敷構えをよく留めており、高い価値が認められることから宅地と建物あわせて指定される。
古文書
河本家では概ね歴代の当主が大庄屋もしくは宋旨庄屋を勤めて来たから、 その居住はさながら八橋郡の役所のようであった。したがって多数の古文書が所蔵保管されてきたが、その多くは殆ど未整理のままである。

これを活用した研究が進めば、東伯耆の江戸時代の地方史が一段と解明されるであろう。
学問と古典籍
河本家には、文人画家の池大雅の筆になる屏風6曲1双が蔵されており、大雅が出雲へ行く道中に立ち寄ったと言い伝えられている。 宝暦年間(1760年頃)のことであるから、7代目藤兵衛の時代のことである。
2代目の伝九郎通膳は武事に志していたが、歌合わせの会を持つなどの文雅の趣味もあった。 水戸藩主水戸斉昭の書を始め、水戸光圀が編集した『礼儀類典』など水戸と関係のある文物は、この通膳の代に収集したものであろう。
13代目芳蔵も文事を重んじたことは、家宅に「稽古有文館」(けいこゆうぶんかん)という館号を付けたことで明らかである。 ただし自分は家業に専念せねばならないために学問に没頭できなかったから、弟の才蔵には思う存分学問をさせた。 才蔵は平田の雨森精斎(あめのもり・せいさい)、大阪の藤沢南岳(ふじさわ なんがく)、東京の根本通明に学んだ。
芳蔵の子の猷蔵は東京帝国大学で東洋史を修め、岡倉天心などに学んだ。 友人に和辻哲朗を持つなど、学者の道に進むこともできたが、河本家の14代目として家産を守ることを己の任務とし、 終戦の混乱期にもよくその責任を果たした。
お庭
河本家には客間の南側と北側との両方に庭があり、南側の庭(写真)は江戸時代中期の様式を残す貴重なものです。

- 「梛」(なぎ)
- 金木犀(きんもくせい)
- 黐(もち)
- 木斛(もっこく)で その他に「南天」・「銀木犀」など、いわゆる「庭の七木」が現存しています。 これらのうち、梛の木は神木とされ、災難よけになると伝えられています。
現況平面図

オモヤの規模は間口(東西)8間半×奥行(南北)7間半とし、間口方向については中央に3間半のドマをはさんで両側に部屋を配す。西側間口4間を居室領域とし、東側は間口1間幅で南北に部屋が並ぶ。東側1間幅の部屋配置は南からそれぞれ奥行1間半が2室、1間が1室あり、半間をあけて1間が3室並ぶ。中央のドマは大黒―小黒の列で奥行を南側3間半、北側4間に分ける。オモテ側とウラ側に分かれ、ウラ側には、上部に防火壁を備えたカマドがある。またウラ側北西部分にはダイドコロが位置する。ダイドコロは2間×2間の一部欠きこみとし、居室領域からドマ部分に張り出している。
ドマ西側の居住領域においては、現状では上屋部分において前列にドマ側からゲンカンノマ(10畳一部板間)、ブツマ(10畳)があり、後列にヒロマ(10畳)、イマ(8畳)がならび、四間取りとなっている。居室領域の正面奥行半間と背面奥行2間半は、瓦葺と鉄板葺の下屋とする。下屋は正面のゲンカンノマとブツマでそれぞれ土間(22)、板間(2)とし、背面のヒロマにはダイドコロ、イマは西側に茶室(2畳)と東側に新ハナレへの通路となる板間(2畳)とする。
建築年代は、棟札より貞享五年(1688)と知られる。棟札は箱棟の棟桁部分にとりつけられている。この棟札は昭和53年の屋根葺替え時に発見された。このほか、祈祷札と思われものが2枚、棟桁とサスにとりつけられている。
ハナレの規模は間口(南北)5間半×奥行(東西)3間半とし、座敷2室と2畳間2室で構成されている。西面に幅半間の土間があり、他の三方にはそれぞれ幅半間の縁がつく。部屋は北から8畳と6畳の続き間とし、西側幅半間を床の間としている。その南には平柱を使って東西に分けた2畳間が平行に並ぶ。ハナレでは数奇屋の要素が多く、すべての部屋で面皮つきの柱、長押、束、棹を用い、面の部分を漆塗りとしている。長押は縁側にもまわっている。構造形式は切妻造桟瓦葺全面瓦葺下屋付平屋建 建築年代は文政3年(1821)である。
琴浦町観光協会
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