河本家住宅

稽古有文館講座 :

春の公開・講演 

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船上山を読み解く
2017.04.30 講演:眞田廣幸 さん

はじめに
 大山汗入郡 船上山八橋郡 美徳山河村郡
  是を伯耆三嶺と号す各社閣の巻に記す。
  「伯耆民談記」(佐伯元吉編『因伯叢書』昭和47 年)
船上山のこと
 船上山=標高615.6m(薄ケ原三角点)。 標高690.0m(神社付近)。
 大山外輪山連峰の北東端に位置。勝田ヶ山から延びる溶岩台地。東西および北側は比高
 100m ほどの絶壁となっている。

「船上山」の記録
 ◇大乗院日記目録』元弘3 年閏2 月23 日(1333 年4 月16 日)条
 「後二月廿三日、夜自密隠岐行宮出御、廿四日、隠岐判官奉追懸之、仏舎利之霊験在之
 云々、伯耆国名和又太郎源年長兄弟依御憑、奉入船上寺奉守護之、出雲守護塩谷判官高
 貞・富士名判官義綱以下馳参了、五月廿三日、前帝自船上御所還幸、頭大夫行房・勘解由
 次官光守各衣冠、其外月卿雲客狩衣、塩谷判官高貞千余騎、前陣、浅山次郎左衛門景遠五
 百騎、後陣、金持大和守錦御旗、右候 、伯耆守長年帯剣役右副、」

 ◇『北条相模守守時・同右馬守茂時連署』正慶2 年4月16 日(1333 年6 月7 日)
  先帝御坐伯耆国船上寺之間、兇徒多奉随付云々、来廿五日以前令進発可致軍忠之条、依仰
  執達如件、
  正慶二年四月十六日    右馬権守
               相模守
  石川大炊助余四郎殿
 
◇『太平記』巻第七 「先帝船上臨幸事」
 「前文略・・・長重ハ主上ノ御迎二参テ、直二船上山へ入進セン。帝ハ頓テ打立テ、船上ヘ
  御参候ベシ。」
 「船上合戦事」
 「俄ニ拵ヘタル城ナレバ、未堀ノ一所ヲ不掘、塀ノ一重ヲモ不塗、唯所々ニ大木少々切倒シ
  テ、逆茂ニヒキ、坊舎ノ甍ヲ破テ、カヒ盾ニカケル計也、」

◇『増鏡』巻十七 月草の花 「後醍醐天皇、伯耆を拠点とする」
 「同じ廿五日(正慶二年閏二月)伯耆の国稲津の浦といふ所へ移らせ給へり。この国に名和
 の又太郎長年といひて、あやしき民なれど、いと猛に富めるが、類広く、心もさかさかしく、
 むねむねしき者あり。・・・中略・・・それより船上寺といふ所へおはしまさせて、九重の
 宮になずらふ。・・・後略。」

船上山の研究
 松田 虎蔵 『船上山摘記』昭和57 年
 赤崎長文化財解説員連絡協議会編 『船上山案内記』平成4 年

船上山所在寺院の縁起
『伯耆民談記』巻之六 「船上山」
 〇「智積仙人の練行舊柄赤衣(シャクエ)上人の草創の山也、船上山智積院と号す、地蔵
  権現を本尊とし、十一面観音多聞天を脇主として、三所権現と称する也」
 〇「元弘の昔後醍醐帝、隠岐国より還幸ありて、名和又太郎長年を頼ませ玉い、此山に楯
  籠り、聖運を開かせ給ふ、依之當社を新に造営あって、金銀を鏤め、数十坊甍を並べて、
  莫大の領地を寄付し給ふ」
 〇「其後修造の外護もなく、年々破却して坊舎も次第に滅し山上大に衰へ、天文十三辰年
  (1544)、兵火の為めに社閣坊舎尽く焼亡し、往古より傳はりたる神器什物皆以て灰土と
   なり、僧徒八方へ退散し、一旦滅亡に及ぶ」
 〇「雲州尼子民部少輔晴久、此頃當国の太守たりしか、仝廿ニ年社閣本の如く再興し、南
  海上人を本願として、三十余の坊舎を建らる」
 〇「天正二十辰年(1592)、南條中務太輔元忠、又修理を加え」
 〇「坊舎も次第に滅亡し、或は十二坊となり、又六坊となり、今は只た一坊のみ残れ
  り、・中略・今有る所の一坊は、大乗院なり、山上をはなるる一里半麓に、竹内村といふ
  所あり、今智積院と号す」
 『船上山幷記後醍醐天皇登山叓』(『船上山根元記』)
  伝智積院四世権律師法印恵海(?~宝暦11 年/1761)作
〇「右船上山ハ昔智積仙人開闢ニテ人王四代懿徳天皇御建立」
〇「昔ハ山頭ニ拾貮坊寺院有リ・・・中略・・・寺院現住難成拾貮ヶ寺之内六ヶ寺ハ其侭立の除
  相残寺院ハ 大乗坊・乗圓坊・龍蔵坊・大宝坊・禅證坊・本乗坊」
〇「前略・・・船上山知行秀吉公御取上中絶及大破候従其寺院住僧永住難成・・・後略」
 『船上山幷寺内分限記』(元禄頃/1688~1704 年/の作か)
〇宮ヨリ乾方寺跡有リ金石寺有之今堂寺共ニ無之事
〇宮ヨリ未ノ方平地有リ傳テ 天皇屋敷ト云フ 一名 行在所ト云フ
〇元明天皇ノ頃(707~715 年)寺領三千石其後衰テ千五石
〇山内分限東は大父奥路ヨリ負子谷通山川村精進川渡リ瀬ヨリ
 西茶園原麓ヨリ下二十五丁餘
 西ハ大山ヲ境谷通川ヨリ東ナリ西坂ノ麓ヨリ下二十丁餘
 南ハ古布庄奥大山往路路境
 北ハ錠岩谷麓ヨリ二十丁餘下大藤ト申所迄ナリ
○世代往古不分明天文年中(1532~1555)六坊左之通
 大乗坊良紹 乗圓坊良素 龍蔵坊重栄 本乗坊良弘 大宝坊良賢 禅證坊良海 以上
 天正年中(1573~1593)以来 大宝坊良春 大乗坊良晴 真如坊良傳

縁起と史料をまとめると
・創建時期=懿徳天皇(第4 代天皇)
  元明天皇(第43 代 慶雲4 年/707~和銅8 年/715 年)
・開祖=智積仙人・赤衣上人
・本尊=地蔵菩薩 脇侍=十一面観音菩薩・多聞天(毘沙門天)
・元弘3 年(1333)頃=「船上寺」?『船上山幷寺内分限記』の金石寺との関連は。
・南北朝の頃、寺院の運営を助ける(外護)有力者がなく衰亡か。
・天文13 年(1544)に尼子晴久が再興し、天正20 年(1592)には南条元忠が修理→智積寺
・豊臣秀吉により寺領が没収→山上の智積寺は文禄年間(1592~1595)に船上山三所権現
 社を残して解散。
・江戸時代中期頃には山上から転身。

金石寺とは
承和六年鴨部立造/更伯耆国金石寺鐘/守護三宝及以□□/十八善神深砂大将/若貧欲者有犯
用心/必滅其身幷子孫類/廻向聖朝国吏庁衆/伽藍恒久仏法興隆/一家繁昌万代全保/法界□
□□□利益
承和6年=839

奈良時代の僧侶
奈良時代の僧侶=基本的に官僧
僧侶の修行
-山中修行を重視-世俗を離脱し、閑寂な山中で瞑想し、悟りを開くことを目指す
-呪術をもって罪障を滅ぼし、仏果を得る功徳が与えられることが経典に説かれている。
※ 伝来当初から奈良時代の仏教の特色
・現世利益の傾向
・鎮護国家の思想
・浄土の信仰(弥勒菩薩の兜率天浄土、
阿弥陀如来の西方浄土)
山林修行の拠点、修行の場=山林寺院
「8-9 世紀の平城京内にある本寺に所属する学僧に、山房をもち、月が明るく照らす半月
(白月)には山に籠り、暗い夜の半月(黒月)には寺に帰る如法修行の生活を送るものが
いた。」=奈良時代の山林寺院の修行は雑密と深く関わっていた。
雑密-天台宗や真言宗より以前の密教的な仏教
山に籠る目的は
-山中修行を重視-世俗を離脱し、閑寂な山中で瞑想し、悟りを開くことを目指す。
-呪術をもって罪障を滅ぼし、仏果を得る功徳が与えられることが経典に説かれている。
大山と三徳山
大山=里から望見できる山 三徳山=里から望見できにくい山
大山
大山は、養老年間(717年~724年)に金蓮上人によって開かれたという。
金蓮上人は、出雲国(島根県)玉作の人で、俗名を依道という猟師であった。あるとき、
金色の狼を追って大山に入り、一矢にして射殺さんとしたが、地蔵菩薩が現れ、狼は老尼
と化した。依道は修行して金蓮上人となり南光院・西明院を建てたという。
・奈良時代に編纂された『出雲風土記』に「火神岳」・「大神岳」と記され、古くから山陰
を代表する神が坐す山として崇敬されていた。
・貞観7年(865)-大山神(大神山神社)に正五位の位階が授けられる。
・寛治8年(1094)‐300 人余の大山の僧兵が京都に上り天台座主を訴える。
大山寺の本尊=地蔵菩薩(本地)
大智明権現(垂迹)
神仏習合・本地垂迹説(ほんじすいじゃく)
神は仏の仮の姿であるとする考え
「本地」は本来の姿、「垂迹」は仮の姿のこと。
如来や菩薩が衆生を救済するために神という仮の姿をとって現れた
と考える。 仏菩薩が仮の姿で現れる=権現
大山の信仰
『出雲風土記』では大神岳と呼ばれ → 山の神を祀る霊山
大蛇を使いとする神で農耕に必要な水をもたらす神
地蔵信仰 →死者・祖霊の他界としての大山 農耕や牛馬の守護神
・江戸時代、中国地方の農民の間では伊勢参り(本参り)とともに大山参りは重要視された
三徳山
三徳山開山伝承=江戸時代の地誌『伯耆民談記』には、慶雲3 年(706)に役小角が子守
明神・勝手明神・蔵王権現を安置して三徳山を開き、嘉祥2 年(849)、慈覚大師(円
仁)が釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏を安置して浄土院美徳山三仏寺と号した
のに始まるという。
記録では=寿永3 年(1184)、美徳山に後白川法皇の御子と称す者がおり、伯耆半国と美
作国の一部を占領していたという。
三徳山の信仰
三徳山は、蔵王権現・子守明神・勝手明神を祀る。
大和金峰山の山内には、子守・勝手・金精・佐投・天満・牛頭・七王子・三十八所・役
行者などの諸神が蔵王権現に随従する。
・江戸時代、参籠した行者などが奉納した納経が残るが、庶民信仰をうかがう史料がすく
ない。
子守明神(本地は地蔵菩薩)= 水分(みくまり)神
勝手明神(本地は文殊菩薩)= 祈雨・止雨の神
智積寺の仏像
 船上山三所権現社 本尊= 地蔵菩薩像 脇侍=十一面観音菩薩像・毘沙門天像
  明治初期の廃仏毀釈により仏像三躰と仏具が竹内の智積寺(法蔵院)に移されたとい
  う。明治11 年(1876)に命があり、翌年に本堂を建立し仏像を祀る。
 文禄年間(1592~1595)の解散後→大乗坊が竹内に草庵を構える→船上山智積院→法蔵院
 (文化2 年/1805)→船上山智積寺(大正時代)
 
本尊 木造 地蔵菩薩半跏像の墨書銘(翻刻 県文化財保護審議委員 松岡久美子氏)

 奉 彫刻/飯治和泉守夷徳丸
 伯耆国舩上山地蔵菩薩躰佛師開山大進君法印定朝/二十二代孫大進法眼定泉平安城六条東
 洞院勅願寺[良憲]/ 本願主大阿闍梨良勝本浄院重厳瀧蔵院良心法光坊/重善仙口院良調
 本乗院良賢大善房良紹大乗院良珎/良顕禅證院良薫大覚坊良曜大光房重圓妙観坊良詮大寳
 院/良榮禅法院少将良久良宗中納言良尊侍従良舜和泉良泰民部卿/浄善坊舜大和尚四良左衛
 門蔵長大良四良九郎次良寄近 明泉/与三郎/道久
 享禄三年[庚寅]十二月吉日 敬白
 享禄3 年=1530 年

脇侍 木造十一面観音菩薩立像の墨書銘(翻刻 県文化財保護審議委員 松岡久美子氏)

 於舩上山 智積寺/奉造立十一面観音菩薩/大願主大乗院阿闍梨良紹/佛師大進法眼定泉
作立所 能儀宗衛門/享禄四天[辛卯]二月廿四日右筆大善房大阿闍梨良賢/享禄四年二月
廿四日=一五三一年三月十二日

脇侍 木造 毘沙門天立像の墨書銘(翻刻 県文化財保護審議委員 松岡久美子氏)

於舩上山  智積寺/本願本浄院良勝/本願大乗院良紹/毘沙門天王造立所
      享禄四年[辛卯]三月吉日敬白
      佛師大進法眼定泉/右筆大善房大阿闍梨良賢
仏師定泉
 定朝二十二代孫 平安城(京都)六条東洞院勅願寺

 三仏寺男神坐像/永正17 年(1520)→三仏寺騎馬像/大永3 年(1523)
 →倭文神社阿弥陀如来/享禄2 年(1529) →智積寺地蔵菩薩/享禄3 年(1530)→智積寺
 十一面観音・毘沙門/天享禄4 年(1531)
山上の寺院跡
 船上神社=船上山三所権現社から明治11 年に改称=明治初期の神仏分離
   祭神=伊弉那美命 速玉男命 事解男命

山上に→土塁で囲まれた寺坊跡=約20
    土塁で区画された平坦地の規模は大小があるが、智積寺本堂跡とよばれる寺坊跡
    は間口が44m、奥行きが43m ほどの規模。土塁の高さは1m から2m。中には堀切
    を伴い堀底から3m を超す規模のものもある。

「船上山旧寺実測図」(文部省『史跡調査報告』第7 輯 1935

3.png 

「てんのうやしき」→「船上神社から5キロばかり西南に天王屋敷と俗称する地もある」
(鳥取県教育委員会編『鳥取県文化財調査報告書』 昭和35 年)

「天皇御鎮座の地は未申にあたるさがしき山の尾上とかや、其処は今に草生ぜずと聞伝ふ
れば参拝ほしけれど案内知らする人なければ遥に拝してあればとか山それは岩松ばかり長
二三尺ばかりなるも多しと指さしそゝのかす人あるに、・・・後略」高木梅下「伯耆めぐ
り」(米子市史編さん協議会編『新修米子市史』第9 巻)平成14 年/「伯耆めぐり」は文
化2 年(1805)の作
「牛頭天王」との関連は

おわりに
○智積寺の前身寺院は
○三所権現の垂迹神は
〇船上山信仰・地蔵尊
・フナノエサン
・オオカミとかオオカメ
松田 虎蔵 『船上山摘記』
昭和57 年より


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